第二回「我々はなぜ選挙へ行くのか」

序文

 この糞ブログの記念すべき第二回は、選挙の話である。なぜ記念すべき第二回が選挙の話かというと、おれがサヨクだからである。

 サヨクとは、選挙が近づくと「選挙へ行こう!」と周囲に投票を呼びかけ始める愉快な存在である。そしておれはサヨクである。よって、ソクラテスの死が必然であるように、おれがこの時期に選挙について語りだすのも、また必然なのである。

 ただ、今回のおれのブログは、「選挙へ行こう!」と読者へ呼びかけるような内容ではない。というのも、最初から選挙へ行く気のある人間は、おれが呼びかけずとも勝手に選挙へ行くだろうし、選挙へ行っても意味がないと思っている者や、政治に興味がない者からすると、選挙へ行こうという呼びかけはただただウザったいだけであり、情熱的に訴えられれば訴えられるほど、引いてしまうだけだからである。もちろん、情熱的な訴えに心を動かされる者も数多くいるので、選挙へ行こうという訴えがムダだとはまったく思わないが、ウザいと感じる者にとっては、やはりウザいだけである。

 つまりなにが言いたいかというと、

「選挙権はあくまで権利であって義務ではないから、選挙へ行くこうが行くまいが、それは個人の自由であり、強制することはできない。ただ、選挙へ行くことにどのような意味があるのか考察しようと思うので、これを読んで選挙権を行使するかどうかの判断材料にしていただければ幸いである」

 という中立を気取ったチキンなスタンスを取ることにより、他人から嫌われることを恐れる自己愛の強い小心者のおれは、ウザがられて心が傷つくのを回避しようというわけである。そしてあわよくば、

「感情に左右されることなく、高みから物事を冷徹に見つめる頭脳明晰なおれ」

 を演出し、おれの中二心を存分に満たそうという魂胆なのである。

 よって、今回はあくまで選挙へ行く意味を解説するにとどめるので、あとは案内状を持って投票所へ足を運ぶなり、案内状を精子の拭き取り紙として自慰行為で活用するなり、好きにすればよい。

 

1.選挙の物質的な意味

 さて、選挙へ行く意味を考えるにあたり、まず第一に論じなければならないのは、

「選挙へ行くことに物質的な意味はあるか?」

 という問題である。ここでいう物質的な意味とは、己の1票が選挙結果を左右しうるかどうかということである。

 これは単純な算数の問題であり、小学生でも分かることだが、己の1票が選挙結果を左右するケースというのは、もし選挙へ行けば投票するであろう候補が当落線上にあり、1票差で負けている場合か、0票差で引き分けている場合のみに限られる。

 これが例えば2票差や、3票差であってはならない。確かに僅差ではあるし、

「あとほんの数人が選挙へ行っても意味がないなどと諦めなければ、結果はひっくり返っていたのに!」

 と嘆きたくもなる。しかし、では選挙へ行っても意味がないと諦めずに自分が投票した場合どうなるかというと、自分一人がそう決心したところで同じように決心する人間が他に増えるわけでもないので、結果は2票差から1票差、3票差から2票差になるだけであり、結果がひっくり返ることはない。己の1票が実効力を持つのは、残念ながら1票差か0票差の場合だけなのである。

 では、実際にこのようなケースが起こりうるかどうかだが、これについてはウィキペディアの「接戦選挙」という記事に詳しい資料が載っている。ウィキペディアとは、昨年数十万部のベストセラーとなった某歴史書も引用し、今や名実ともに立派な学術的文献の一つとなったインターネット百科事典である。

 この記事では、当落が1票以下の差で分かれた選挙と、得票数が同数となった選挙について、過去10年間で合わせて11の事例が紹介されている。ただ、これらはいずれも地方の議会議員選挙での事例である。得票数が数万票単位になる国政選挙や知事選挙では、得票数が1票差か0票差となるには分母が大きすぎるため、そのようなケースは発生し難いのだろう。仕方がないので、国政選挙や知事選挙は諦め、地方選挙で1票が選挙結果を変える確率を求めることにする。

 現在日本には1741の地方公共団体が存在する。地方議員の任期は4年なので、単純計算で2.5倍すると、過去10年間で4352.5回以上の選挙が実施されたことになる。以上というのは解散を考慮に入れてのことだが、今回は簡単のため除外する。このうち、1票差か0票差となった事例は11なので、己が属する地方公共団体で1票が選挙結果を変える力を持つ確率は、およそ0.25%である。

 もちろん、地方公共団体の人口によってこの確率は変動するし、大雑把な計算で正確性に欠ける部分もあるが、かの有名作家も愛用した学術的文献を基にしているのだから、1票が選挙結果を変える確率は十中八九この数字と見て間違いないだろう。

 これを現実の生活に当てはめると、20歳で選挙権を得てから80歳で死ぬまで15回の地方選挙にすべて参加し、当落線上にある候補に投票し続ければ、およそ3.69%の人間が、己の1票が選挙結果を変える幸運に巡り合える計算になる。

 分かり切ったことを長々と説明したが、まあ要するに、選挙へ行くことに物質的な意味はほとんど望めないということである。

 ただ、おれは個人の1票に物質的な意味はないと言うことによって、1票の価値を貶めたいわけでも、選挙へ行く人々を冷笑したいわけでもない。選挙へ行ったところで己の1票に世界を変えうる力がないという事実は、投票行動を起こすうえで絶対に避けられない絶望的な障壁なのである。 

 

2.選挙の費用対効果

 おれが初めて選挙権を得たのは、2012年の第46回衆議院議員総選挙だったが、おれはこの選挙で投票しなかった。というのも、住民票を地元に置き去りにしたまま地方の大学へ進学したので、選挙の案内状が下宿先に届かなかったためである。もちろん、不在者投票制度を知らなかったわけではない。というか、親父から

「実家の方に選挙の案内状が来とんのやけど、不在者投票せえへんのか? 選挙権っちゅうんは、民主主義国家における国民の大切な権利やぞ」

 という念押しまでもらっていた。それでもやはり、おれは選挙へ行く気が起きなかったのである。

 おれが高校生の頃はちょうど麻生政権の時代であり、おれはネットで得た真実にハマっていたので、マスゴミミンス党売国的陰謀を阻止するべく、成人したら必ず選挙へ行こうと考えていた。だが、いざ二十歳になって選挙権を得てみると、世論は民主党に失望しきっており、おれが真実の投票をするまでもなく、自民党が大勝するだろうという流れである。さらに投票するためには、不在者投票用紙を郵送で請求するという、社会性のないおれにとっては七面倒な手続きを踏まなければならない。そこでおれはこう考えた。

「おれが選挙へ行こうが行くまいが、おそらく選挙結果が変わることはないだろう。それなのに、わざわざ不在者投票などという煩わしい手続きをしてまで投票することに、一体なんの意味があるのだ? それは『おれはちゃんと選挙に行ったぞ!』という事実を得るためだけの、自己満足に過ぎないのではないか?」

 要するに、面倒臭かったのである。

 選挙が近づくと、住民票を移していない大学生へ向けて、不在者投票制度があるので諦めずに選挙へ行こうといった旨のアナウンスがなされるが、彼らの多くは別に不在者投票制度を知らないから投票しないわけではない。わざわざ面倒な手続きを踏んでまで、絶対に選挙結果を左右することのない1票を投じるということに、なにも価値が見出せないから選挙へ行かないのである。まあ、ソースはおれだけだが。

 これは選挙の案内状が手元にない学生に限った話ではない。政治のニュースを追いかける日々の労力や、投票所へ足を運ぶ手間によって犠牲にされるプライベートの時間といったコストに見合う対価を、選挙に見出すことができないというのが、人々が選挙へ行かない根本的な理由であり、現代的に言えばコスパが悪いのである。政治に興味を持とうが持つまいが、どっちにしろ世界が変わらないのであれば、人生の貴重な時間を政治なんかに浪費するよりは、それを個人の趣味や遊びの時間に使ったほうがコスパが良い。つまり、選挙へ行かないという選択は、実は合理的な判断なのである。

 また、ここでは新たに別の問題も浮上している。「選挙へ行けば日本は変わる」とリベラル勢は言うが、もし七年前のおれが選挙へ行っていれば、おれは自民党に投票していたはずなので、選挙へ行くことによって日本は変わるどころか、彼らにとってより悪化する方向へ寄与していただろう。

 「選挙へ行けば日本は変わる」という言説には「社会に関心を持ち、私と同じ政治的認識を獲得したうえで」という前提が常に隠されており、ただ単に投票率を上げればいいという問題ではない。組織票や金にモノを言わせた広告などの不公正はあれど、自民党公明党に多数の議席を与えているのは、あくまで選挙へ行った国民であり、N国党のような政党に議席を与えたのもまた、選挙へ行った国民なのである。この問題については後に詳述する。

 このように、選挙へ行く物質的な意味のみを考えると、必然的に選挙へ行くのは時間の無駄であるという帰結が導かれ、実利的で合理的な判断を下す限りは、人間が投票行動を起こすことはまったく不可能である。逆に言えば、投票行動を起こすためには、非実利的で非合理的な判断が必要となってくる。つまり、選挙へ求めるべきは物質的な意味ではなく、精神的な意味なのである。

 

3.選挙へ行く精神的な意味

I.政治に文句を言う権利を獲得するため

 選挙へ行く精神的な意味の中で最もポピュラーなのは、政治に文句を言う権利の獲得である。その典型的な一例として、おれが小学六年生のときの担任の教師の言葉を紹介する。

 おれが小学六年生のとき、社会科の授業で

「わたしたちは選挙へ行くべきか? 行かないべきか?」

 という議題を設定し、ディベートを行ったことがあった。当時のおれは大人になれば当然選挙へ行くべきだと考えていたが、それと同時に天邪鬼なクソガキでもあったので、なんとなく「行かない派」の席に腰を下ろし、特に発言することもなくボーッと議論を眺めていた。そしてディベートが終わり、最後に教師の総括があった。曰く

「選挙権はあくまで義務やなくて権利やから、行っても行かんくても、どっちでも好きにしたらええわ。ただなあ、選挙に行かんかったやつは、政治でなにがあろうと絶対に文句を言うなよ! 政治に文句を言いたいんやったら、ちゃんと投票しろ!」

 日本国民から政治に文句を言う気力を奪っているのは、理不尽な校則や教師の命令に子供を服従させ、少しの反論を許さないような日本の軍隊式の教育であり、この教師はその中でも鬼教官のような人物だったので、改めて回顧するとどの口が言うのかと思いはするが、そのような教育に疑問を抱いていなかった当時のおれは素直に感動し、こうして今でも強く記憶に刻み込まれている。

 選挙へ行かなかった者は政治に文句を言ってはいけない……つまり裏を返せば、この教師にとって選挙へ行くということは、政治に文句を言う権利を獲得しに行くということでもある。

 もちろん「政治に文句を言う権利」なるものが法的に存在するわけではないし、無関心からではなく真剣に考えたうえで、投票に値する候補者がいないと判断し、選挙へ行かないという選択をした者も数多くいるだろう。あくまで、この教師が勝手にそう思っているだけである。

 ただ、おれのように普段から政治に文句を言っている人間からすると、やはり選挙へ行きもせず政治に文句を言うのは、どうも気が引けてしまうのである。

「おまえーっ!」

「あのさあ」

「安倍政権がなーっ!」

「おまえ、いっつも政治の文句言ってるけどさあ」

「国民をなーっ!」

「ちゃんと選挙行ってんの?」

「ゆるさーん!!!」

「どうなの?」

「え、なにが?」

「だから、ちゃんと選挙に行ってるのかって」

「え、いや、それはあの、こないだはほら、投票日が台風だったし……」

「台風の予報なんて一週間前から出てたし、予想できたことじゃん。なんで期日前投票しなかったの? 知らなかったわけじゃないよね?」

「……」

「政治に文句を言うならさあ、ちゃんと選挙くらい行けよ」

「うっ……ううっ……」

「うわ、泣くなよ」

 ……このような事態になれば、おれは恥ずかしくて生きてはいられなくなってしまうだろう。

 おれやこの教師のように、選挙へ行かなければ堂々と政治に文句を言えないと感じる人間からすると、たった数十分の散歩をするだけで、今後数年間の「政治に文句を言う権利」を獲得できるというのは、大変お買い得であり、選挙へ行かない理由がないのである。

 

II.大人としての責務を果たすため

 これもまた、人々が選挙へ行くポピュラーな理由であり、この「大人」という言葉の意味するところは、人によって千差万別である。

 十八歳になり選挙権を得て、初めて選挙へ行った者の中には

「いちおう、こうして大人の一員になったわけだし、やっぱ選挙とか行っといたほうがいいのかなあ……」

 という後ろめたい義務感に駆られて、とりあえず投票所へ足を運んだという者も多いだろう。そして投票所へ来たはいいが、誰に投票すればいいかよくわからないので、

「見た目が清潔そうだから、なんとなくノリで」

「とりあえず与党だから、なんとなくノリで」

日本放送協会がどうのこうの言っていて面白そうだから、なんとなくノリで」

 適当に票を投じたのかもしれない。まあ、今後の選挙へ行くハードルを下げ、政治に関心を持つきっかけにもなるので、最初くらいは適当なノリで投票するのもいいだろう。

 この場合、政治に対して特別関心もない彼らが、休日の貴重な時間を犠牲にしてまで投票所へ足を運ぶことができたのは、選挙権の行使を大人の責務として捉えていたためであり、そして彼らは選挙へ行かないことへの後ろめたさから解放されるという、精神的な利益を獲得することができたのである。

 これは若い世代に限った話ではなく、

「選挙へ行かないのは大人として恥ずかしい」

 という意識を持った人間はどの世代にも存在する。特に上の世代になるほど、大人としての社会的な体面が重視された環境で育ち、また戦後民主主義の影響も色濃く残っているので、このような強迫観念を持っている人間が多いように思われる。

 いずれにせよ、彼らにとってはたった数十分の散歩をするだけで、今後数年間「恥ずかしくない大人」として堂々と胸を張ることができるのだから、選挙へ行かない理由がない。

 また、このような後ろめたい義務感からではなく、おれの親父のように

「民主主義国家において、選挙権を行使することは大人として当然の責務である」

 と考え、積極的な義務感から選挙へ行く人間も数多くいる。

 もちろん、「選挙へ行くことは大人の責務である」などという法律は存在せず、おれの親父が勝手にそう思っているだけに過ぎないのだが、別にそれでいいのである。そもそもこの世界に絶対的な意味などなく、意味とは世界の中から自らの力で見出していくものなのだから、選挙へ行くことが大人の責務と感じられるのであれば、その人間にとって選挙へ行くことは大人の責務なのであり、それが精神的な意味というものである。

 「大人とはなにか」ということは如何様にも定義できるので、なにを以て大人とするかは各人が思い思いに考えればよい。おれが選挙と大人の関係について考えるうえで心に浮かぶのは、やはり子供の存在である。

 新たにこの世に生を享ける人間は、生まれる時代や場所を選択することができないので、先人たちが作り上げた世界の中で否応なく生きて行かざるを得ない。そのすでに出来上がった世界の中には、先人たちの血の滲む努力によって獲得された人間の権利や、数々の天才たちが築き上げた学問や芸術といった、正の遺産もあれば、歯止めの効かない少子化、格差による相対的貧困の拡大、衰退していく経済、劣悪な労働環境による過労死、風雲急を告げる気候変動といった、私腹を肥やすことしか頭にないクソ政治家や、文句を言うだけでなにも行動を起こそうとしないおれのようなクソ人間によって棚上げにされてきた、負の遺産もある。

 いつかおれに子供ができる日のことを想像してみると、それはもう可愛くて可愛くて仕方がなく、子供には幸せな人生を送ってほしいと切に願って止まないだろう。であれば、負の遺産を次の世代へ背負わせることなく、正の遺産を受け継いでいくということが、大人としての責務ではないだろうか。

 これも、おれが勝手にそう思っているだけに過ぎないが。

 

III.当選させたい候補者、または落選させたい候補者がいるから

 当選させたい候補者や、落選させたい候補者がいる者にとっては、己の1票に選挙結果を変える力があるかどうかなど、クソほどどうでもいい問題である。

 例えば、AKB48選抜総選挙で今から投票しようというアイドルオタクに

「別におまえが投票してもしなくても、選挙結果は変わんないじゃん。投票する意味あんの?」

 と訊いてみればいい。おそらく

「ぼくのこの想いを、1票に乗せて届けることが大切なんだッ!!!」

 という反論が返ってくるだろう。おそらく。実効性を求めて何千枚も投票券付きCDを買い漁るファナティックな人間もいるにはいるが、ほとんどのファンにとっては、自分の1票を応援しているアイドルに届けるということが大切なのである。おそらく。

 これは政治的な選挙であっても同様である。

「この人は絶対に日本を良くしてくれる! 絶対に当選してほしい!」

 と思える候補者がいれば、たとえ1票であっても、たとえなんの実効力もなかったとしても、ほんの少しでも力になりたいと思うのが、人間というものである。

 また逆に、

「こいつだけは絶対にヤバい! こいつが当選したら日本は終わる!」

 というような候補者がいれば、たとえ1票であっても、たとえなんの実効力もなかったとしても、対立候補に投票し、目にもの見せてやりたいと思うのが、人間というものである。

 それはいいとして、問題となるのは、自分の選挙区にミジンコレベルの候補者とミドリムシレベルの候補者しかおらず、どちらにも積極的には投票したくないという場合である。この場合、有権者には二つの選択肢が与えられる。微生物レベルの候補者に投票する価値はないとして棄権するか、一ミリでもマシな候補者が当選すれば、少なくとも一ミリは日本がマシになると考え、一ミリでもマシな候補者に投票するかであり、あとは有権者の自由に選択するところである。

 おれなら、ミドリムシが持つ葉緑体地球温暖化の解決に一ミクロンくらいは寄与してくれそうな気がするので、ミドリムシを選ぶだろう。

 

IV.普通選挙が実現するまでの苦難の歴史を知っているから

 普通選挙が実現されるまでには、それはそれは苦難の歴史があった。具体的にどのような苦難の歴史があったかは、無知がバレそうなので詳しくは語らないが、我々が当然のように手にしているこの一票は、先人たちの血の滲む努力と犠牲の上に成り立っているのである。また、現在でも普通選挙が実現されていない国では、今も多くの人々が選挙権を獲得するために戦い続けている。

 このような事実を前にすると、選挙権を行使することなく放棄してしまうのは、あまりにもったいなく感じられる。おれが選挙権を行使したからと言って、選挙権を求めて戦った、もしくは戦っている者たちに選挙権が与えられるわけでもないし、己の1票が選挙結果になにか影響を及ぼすわけでもない。しかし、やはりなんだかもったいない気がするので、無意味だとは分かっていても、ついつい投票してしまうのである。

 これはちょうど、おれが飲み会の席で残飯処理係として活躍している理由とよく似ている。

 おれは飲み会であまり酒を飲むことができない。というのも、おれが酒に弱いからではなく、飯を食いすぎてしまうからである。そしておれが飯を食いすぎてしまうのは、別に食い意地を張っているからではない。食物が人間の口に入れられることなく廃棄されてしまうのが、あまりに忍びないためである。

 食物とは要するに、動植物の死骸である。目の前に調理された食物があるということは、その分だけ牛さんや豚さんが殺害されたということである。おれは牛肉や豚肉を食べること自体には動物愛護的な抵抗はないのだが、食物が食べられることなく廃棄されれば、それは死ぬ必要のなかった命が無駄に殺されてしまったということを意味するので、牛さんや豚さんに対して非常に申し訳ない気持ちになってしまう。

 また、世界には飢餓に苦しむ人たちが大勢いるというのに、その一方で目の前では食物が大量に廃棄されているという現実のグロテスクさに辟易としてしまうし、肉の生産は森林の伐採や、水や穀物など飼料の大量消費の上に成り立っているという現実も、おれの心を萎えさせる。そうした罪悪感から、せめて食物が廃棄されることがないようにしようと、ついつい食いすぎてしまうのである。

 もちろん、おれが廃棄されようとしている食物を無理して胃袋に収めたところで、死んだ動物が生き返るわけでもないし、飢餓に苦しむ人たちの腹が膨れるわけでもないし、伐採された森林が蘇るわけでもない。それはただの自己満足に過ぎない。それどころか、むりやり詰め込まれた食物に胃袋が苦しい悲鳴を上げ、過剰摂取された栄養は皮下脂肪として蓄積されて肥満が加速するだけであり、健康にも悪い。そうは分かっていても、やはりもったいないので、ついつい食ってしまうのである。

 ……と、ここまで書いて、例えがクソすぎて意味をなしていないことに気づいたが、書き直すのが面倒臭いのでそのままにしておく。

 

V.人々に投票を呼びかけたいから

「選挙へ行って日本を変えよう!」

 と人々に呼びかけているのに、自分自身は選挙へ行っていないという人間がいたとしたら、そいつは頭がおかしいだろう。投票を人々へ呼びかける限りは、自分自身も選挙へ行かなければ示しがつかないので、こういった人間は雨が降ろうが槍が降ろうが、絶対に選挙へ行かざるを得ない。

 ここで、ひとつ誤解があるかもしれないので補足しておくと、おれは人々に選挙へ行こうと呼びかけることは、政治的に有効な手段だと考えている。

 個人が投票できるのはたった1票に過ぎないが、投票を呼びかけることで周囲の人間を投票所へ向かわせることに成功すれば、2票以上の票を動かすことができる。特に、SNSのフォロワーが何十万人もいるようなインフルエンサーともなれば、投票の呼びかけは絶大な効果を発揮するだろう。また、心を動かされた者が自分自身も周囲に投票を促すことによって、さらに投票行動を起こす者が増えるといった連鎖反応も期待できる。

 第一章で己の1票が選挙結果を左右しうるのは1票差か0票差の場合に限られると書いたが、あれは他者への影響を捨象した純然たる個人の投票行動についての話であって、投票の呼びかけのような他者への働きかけがあれば、それ以上の票差を覆すことは可能である。

 選挙にある程度の実効性を求めたいのであれば、選挙へ行こうという呼びかけはたいへん有効な手段であり、そのためにはまず、自分自身が選挙へ行くことによって態度を示さなければならない。

 

VI.投票率の低さを嘆いているから

「なんで日本人は選挙へ行かないんだ!」

 と、国民の投票率の低さを嘆いているのに、自分自身は選挙へ行っていないという人間がいたとしたら、そいつは頭がおかしいだろう。投票率の低さを問題視する限りは、自分自身も選挙へ行かなければ示しがつかないので、こういった人間は雨が降ろうが槍が降ろうが、絶対に選挙へ行かざるを得ない。

 さて、第二章でただ投票率を上げるだけでは意味がないと述べたが、それは投票率の低さというのは民主主義が死にゆく際の症状の表れに過ぎず、根本的な問題は国民の政治的無関心にあるからである。発熱や咳はただの風邪の症状であり、体内で暴れまわる病原体が風邪の根本的な原因であるように。つまり、必要なのは投票率を上げるという対症療法ではなく、国民の政治的無関心という病の根本的な治療である。

 日本国民が政治に無関心なのは、頭脳明晰でリーダーシップがあり、総理大臣に就任した途端、現在の日本が抱えるあらゆる問題を即座に解決してくれるような、超有能な政治家を求めているからではないかと思われる。だからこそ、政権交代によってなにかが変わるのではないかと期待が寄せられた民主党政権が失敗したとき、国民は

「なんや、誰がやっても一緒やんけ。アホくさ」

 と失望し、政治への関心を失ってしまったのだろう。

 よって、国民が政治への関心を取り戻すためには、まずはそのような超有能な政治家が登場してすべてを解決してくれるといった妄想を捨て去らなければならない。

 そもそも、なぜ国民の政治的無関心が問題であるかというと、憲法や法律というのはただの文章に過ぎず、それらを正しく理解し実際に運用する人間がいなくなれば、まったく無意味な文字の配列へと失墜してしまうからである。国民の政治への関心が薄まれば、国民の無関心をいいことに、無能な汚職議員が裁かれることなく議会に跋扈し、司法やメディアが抱き込まれて不法な言動が横行する事態となり、政策がどうこう以前に、まともに政策を議論するための土台そのものが破壊されてしまう。政治に期待をしないのは一向に構わないが、だからといって法が正しく運用されているかどうかの監視までもを捨て去ってしまってはならない。

 また、いちおうこの国では主権は国民にあることになっているので、どこかの誰かが問題を解決してくれるのをただ待ち望むだけというのは、あまりに他人任せな態度である。まあ、おれもその一人なのだが。

 政治家はエスパーでもお人好しでもないので、勝手に読心術で我々の不満を汲み取り、勝手に住みやすい社会を作ってくれたりはしない。国民が社会へ関心を向けて積極的に情報を発信し、世論を盛り上げていくことができなければ、社会はなにも変わらないだろう。

 選挙とは国民の代表を議会に送り出すイベントに過ぎず、あくまで社会を変えていくのは政治家ではなく国民なのである。まあ、おれのことなのだが。

 

VII.国民一人一人が意識を変えれば世界は変わるから

 個人の一票に世界を変える力はないという今までの主張と矛盾するようだが、

「国民一人一人が意識を変えれば世界は変わる」

 という言説は真実である。これは簡単な話で、一億二千万の日本国民が一人残らず政治に高い関心を示し、互いの意見を尊重し合いながら政治的な議論を活発に交わし、各自が真剣に考え抜いたうえで適当な候補へ投票し、憲法や法律を熟知して法の網の目を掻い潜ろうとする不逞な輩に眼を光らせ、社会によって抹殺されようとしている人々へ手を差し伸べるようになれば、そりゃあ世界さんだって変わらざるを得ないだろう。世の中を変えたいのであれば、国民一人一人が意識を変える必要があるというのは、とてもシンプルな解答である。

 ただ問題は、国民一人一人が意識を変えれば世界が変わるのが事実だとしても、自分一人がそのような意識を持ったところで、別に国民一人一人の意識が高まるわけではないので、結局のところ世界は変わらないということである。よって、政治に関わるのは時間の無駄であると判断し、限りある人生の時間を政治以外の物事へ注ぐべきだというのが、最も合理的な解答となる。

 つまり、マクロな視点で見れば選挙へ行くことは合理的な判断となるが、ミクロな視点で見れば選挙へ行くことは非合理的な判断となってしまうのであり、これが、

「選挙へ行けば世界は変わる」

「選挙へ行ってもどうせなにも変わらない」

 という相反する二つの主張が、同等の説得力を持って存在する理由である。

 さて、選挙へ物質的な意味だけを求めるなら、後者に転んでしまうことは避けられないが、しかし、精神的な意味を求めるなら、前者を選択することは容易い。

「国民一人一人が意識を変えなければ世界は変わらないというのが事実であれば、ならば自分はその一人であろう。たとえなにも変わらなかったとしても、せめて自分くらいはそのような人間であろう」

 と思えばいいだけなのだから。

 これまで述べてきた選挙の精神的な意味とは、言い換えれば、

「社会と個人の関わりの中で、自分自身がどのような人間でありたいか」

 ということであり、そして、選挙によって変わるのは世界そのものではなく、自分自身の世界に対する認識である。

「おれは真剣に考えたうえで選挙に行ってねえんだよ、ぶち殺すぞクソ野郎」

 と言われそうなので、もう少し正確に書くと、選挙によってではなく、社会や政治を考えることによって、である。

 何人も社会との繋がりを断ち切ることはできず、社会のしがらみの中で生きて行かざるを得ないのだから、社会や政治を考えるということは同時に、自分自身を考えるということでもある。そして、自分自身を深く考えていけば、世界に対する認識も自ずと変革していくので、そうすれば人生そのものも変わっていくだろう。

 

跋文

 これ以上は長くなるので、というかネタ切れなので、このあたりで列挙するのはやめにするが、選挙の精神的な意味は、なんら学術的な根拠のないただの精神論に過ぎず、正解などは存在しないので、ここに列挙した以外にも、各人が自由に考え、これだと思う意味を見つけていけばよい。

「選挙に精神的な意味があるということは理解したが、それでもやはり政治なんかには興味が持てないし、クソどうでもいい」

 と思うのであれば、それは仕方がないだろう。興味がないモノに興味を持てと言われても、それは無理な話であり、政治に対して生理的な嫌悪のようなものを感じるのであれば、これはどうしようもない。まあ、人生は長く、人の性格や思考というのは時とともに変わっていくものであり、いつか政治に興味を持つような機会があるかもしれないので、またそのときに考えてもらえばいいだろう。

 人が時とともに変わるというのは、逆もまた然りである。こうして選挙の持論を語っているおれも、

「世間の俗物とは違い、社会のことを真剣に考えているオレサマ」

 に酔いしれているだけで、己のアイデンティティーの空疎さを政治によって埋めようとしている可能性は否定できない。そして、そのうち己のアホらしさに気づき、社会への関心を失ってしまうということもあるかもしれない。

 いや、すでにアホらしくなってきた。こんな駄文を書いていて、いったいなんの意味があるのか。おれはもっと他にやるべきことがあるのではないか。そう考えると、この世のすべてがバカバカしく思えてきて、自分がなんのために生きているのか、よくわからなくなってきた。

 人生は闇である。

 

 おわり

 

 

追記

 私のおうんこブログを最後までお読みになられた酔狂な読者の方々におかれましては、あまねく次のような疑問を抱かれたことと存じます。

「おれがこの時期に選挙について語りだすのもまた必然なのであるって、どの時期やねん。参院選はとっくに終わったし、衆院選はまだやないかい」

 はい、その通りでございます。本来は参院選の前に本稿を書き上げ、中立を装っているようでいて、そのじつ啓蒙的なサヨク思想に満ちたブログによって大衆を扇動し、現政権を転覆させる目論見だったのですが、どうしても『トイ・ストーリー4』を劇場で見たくなってしまい、ウッディーの心の解放への感慨に耽るうちに、気づけば参院選は過ぎ去ってしまいました。

 前回のブログをお読みになられた方はご存じかと思いますが、とある事情により私は参院選で投票することができませんでした。選挙へ行くこともできず、選挙へ行こうとアジることもできない人間など、もはやサヨクと呼べる代物ではなく、私にサヨクを名乗る資格はありません。

 サヨクへの道を断たれた者は、右翼へと転身するよりほかないですから、次回は、八紘を一宇とすべく、鬼畜米英に押しつけられた憲法を改正し、偉大なる大日本帝国を再建するための、現代の右翼思想についてお送りいたします。ご期待ください。